鷲峰山高台寺 圓徳院祈祷開眼
『三面大黒天』(原寸大複製)
尾張の国 中村(現、名古屋市中村区)に百姓の子として生を受け、
過酷でどん底のような少年時代から天下人まで上り詰めるという、
日本のみならず世界史的にも稀に見る大出世を遂げた
歴史的英雄、豊臣秀吉。
その出世の陰には、ある仏像との出会いがありました・・・
それこそが秀吉の菩提寺である
(京都市東山区)に今なお祀られる“三面大黒天”なのです。
本作品は圓徳院の公認を受け、秀吉ゆかりの
本作品は一体一体、圓徳院にて開眼供養のご祈祷を受けており、その証である御札が付属します。
■『三面大黒天縁起』に記された秀吉と三面大黒天との出会い!
圓徳院に伝わる『三面大黒天縁起』には次のような記述があります。
“豊臣秀吉公が若い頃、三面大黒天の塑像を見て、
請うて心に念じて言った。
「私が、もし立身出世して、名声を天下に伝えられることができるなら
微塵になれ。
そうでなければ形を全うせよ」といって投げたところ、
微塵となった。
そこで秀吉公
は、大いに喜び仏工に命じて尊像を彫刻させて、
常に崇拝し、天下を掌握するに至る”」
若かりし秀吉は“三面大黒天”に己の命運をかけて願掛けを行い、その結果に従い自身の尊像として“三面大黒天”を彫らせ、力の糧としたのです。
実際この出会いの後、
●最初の転機は出世栄達の足掛かりとなった「信長の草履取り」の逸話。
●二つ目は「天下の良妻ねねとの結婚」。
●三つ目は朝倉義景討伐の際の浅井軍の裏切り=金ヶ崎崩れの「命懸けの殿(しんがり)志願」。
●四つ目は本能寺の変の後、備中高松から山城山崎まで200kmの行程を僅か10日で踏破した「中国大返し」の奇跡による明智光秀の討伐です。
百姓の出である人物が成し遂げたとは到底思えないこれらの出来事は、何か目に見えない大きな力の導きがあったと思わせるに十分でした。
信長やねねという稀有の人物との幸運な出会い、未曽有の危機をものともせずチャンスに変えた胆力。これこそが“三面大黒天”を信奉したことで得られた功徳と加護の賜物だったのでしょう。
■三面大黒天とは、強力な天部が三位一体となった合体神!
“三面大黒天”は、護国豊穣の福の神=大黒天、必勝と財運の福の神=毘沙門天、福徳財宝の福の神=弁財天という単独でも強力な天部が三位一体となった最強の福の神です。秀吉はそれを生涯、念持仏とすることで強力な勝負運(金ヶ崎崩れの殿志願、中国大返しの明智光秀討伐)と、ありがたい良縁(織田信長、ねねとの出会い)、そして大金運(200万石の所領と莫大な上納)に恵まれたのです。
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"■北政所ねねが秀吉を弔うために建立した圓徳院
北政所ねねは、慶長8(1603)年「高台院」の号を勅賜されたことを機に、夫である秀吉を祀るために高台寺建立を発願。
慶長10(1605)年、伏見城の化粧御殿とその前庭を現在の下河原町に移築して移り住み、その際、秀吉の念持仏であった“三面大黒天”もお堂に祀ったとされます。ねねは77歳で亡くなるまでの19年間この地で余生を送り、その間、兄の木下家定とその次男の利房がねねを支えました。
利房は、ねね没後9年目の寛永9(1632)年、高台寺の三江和尚を開基とし、木下家の菩提を弔うために居館を改め圓徳院としました。これが今日まで続く高台寺の塔頭 圓徳院の起こりなのです。
■太閤秀吉の菩提寺 圓徳院に祀られし念持仏を原寸大で再現し開眼供養を施した公認の像
太閤秀吉に未曽有の幸運を授け、念持仏として生涯を共にした“三面大黒天”は、秀吉・ねねの菩提寺である圓徳院に今なお祀られ、秀吉の出世栄達にあやかりたいと願う多くの人々に信奉されています。
本作品は、稀有な存在の福の神を圓徳院の公認を受け、ほぼ原寸大で再現したものです。一体一体、圓徳院にて開眼供養のご祈祷を施し、御精入れしたものとなります。本品にはご祈祷の証となる開眼供養証明書、とありがたい2枚の御札(字札、姿札)をお付けしてお届けさせていただきます。
販売価格 ¥35,000
(税込) ¥37,800
サイズ 本体:約(H)130×(W)105×(D)80㎜、重さ210g
台座:約(H)35×(W)142×(D)100㎜、重さ170g
材質 桧
生産地 日本
納期 通常(5~10営業日)
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